「生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことはない」
「生きた神を信心せよ」とはどういうことだろう?
神様にも生きているものと、そうでないものがあるのだろうか?
世間での神仏の対象は、生前、偉大な功績を残しこの世を去った人であることが多い。長い年月、そういう方を神様、仏様として崇めることが信仰心に繋がっている。
金光教の神様は天と地そのものがご神体なので、人ではない。人は天地の中で生まれ、育まれ、人生を終え、姿はこの世から無くなってしまう。だが、天地は私達人類が生まれる遥か彼方、地球からさらには宇宙の歴史とイコールなので、その時から今までひと時も動きを止めてしまうことなく在り続けている。
しかもその中に生命という生きた働きを伴って活動をし続けている。つまり天地がご神体だということは、私達は永遠に死なない神様、常に生き生きと活動し続けている神様を拝んでいることが分かる。
沖縄地方では今も火(かまど)の神様、水(井戸)の神様といった自然界をご神体とし、御嶽(うたき/神社に相当)のそれも岩や木だったりすることが多い。
人がいようがいまいが、そこにあり続けるこれらをご神体と崇め感謝を捧げ、祈りを捧げる姿は、沖縄に行くたびに心打たれる。
天地の大いなる神様にご縁をいただいている私達、永遠に無くなることのない神様がいることは心強いし安心だ。
永遠に在り続ける神様を拝ませてもらえることは幸せなことだ。(編集子)
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