先月、テレビのNHKスペシャルで人気歌手YOASOBIの特集がありました。全聴衆が熱唱しているのが印象的でした。だがそれは歌手自身が渾身の想いで熱唱しているからこそのことだなぁと思って見させてもらいました。
金光様はなにも熱唱したのではないのですが、実はあの歌手たちのように、渾身の想いを以って、しかしゆったりと人々に語り掛けていたには違いないと思うのです。
それは、「天地は壮大なパワーをもって生きておられますねー!」「何ものにも増して大きく、躍動し続けているでしょ?」「感じてください!わかるでしょ!」と言わんばかりに。
それが言葉となって、「生きた神を信心しなさいよ」「天地が生きているからこそ人間も生きていられるのですよ」「死んだ神へ信心してはいけませんよ」のようにあふれ出たのだと思います。それは天地の姿を観ていると誰でも実感できる、と伝えたかったのだと思うのです。
生きた天地に包まれたKさん
岡山教会のKさんが初めて教会に参り、翌朝参拝した時のことについての音声が金光教本部のホームページで紹介されています。
「朝参りを始めたんですよ。…10月の中旬ぐらいでしたかね、私は、朝、弱い方だったから、『え?こんなまだ真っ暗なんか…』と。寒かったのもありましたし、星が出て、暗闇の中を自転車で15分くらいですかね。
旭川の向こう側の土手を走って。その下の道から土手へ出た途端に視界がパーっと開けて、川が流れてる、自然が、空気が、大気が、ゴーッと言うて、何か動いてるいうのを、しんしんと感じてきて、『何これ』っていう感じで、何の涙か知れないけど、何かありがたくてありがたくて、涙が出て涙が出て、自転車走らせて教会へ行ったんですよ」
そして、岡山教会の朝のお祈りの後、先生から教えについてのお話がありました。
「『今、天地の開ける音を聞いて目を覚ませ』というところ。それをぱっと言われて、うわっと言うか、今通ってきた景色と相まって、もう何か頭をガーンと殴られたような感じで。それで聞いていたら、神様がおられて助かってくれと願ってくださってるというような、そういう、生かされてるというお話。初めてそういう話を聞きましたから。
もう何かその、朝のあれと相まって、もう本当にもう、あの感動、衝撃、それは今だに忘れることはないんです。もう、それを聞いてありがとうなって。
それで帰る時、教会を一歩出たら、ばっと太陽が…。あんな大きな太陽、見たことがないような…。犬を連れてその辺を散歩してた人らも、「うわー」と言うて、ほんと、特別な太陽だったと思うんですよ。私はまたもう一連のつながりで、もう感動。泣きながら家に帰りました。ありがたくて。何か神様がこの日を私のために演出…そんな言い方あれですけど、私には何かそう思える、…」
と感じられました。そしてその後もずーっとその感動をもとに、信心を続けられ、さらに次々と未信の方をこの道に導かれました。
利守志野氏も世界が開けた
金光様のお話(御理解)には、命が助かったとか、盲目が晴眼になった、といういわば奇跡的な「御利益」話もたくさんあります。けれども、日々繰り返しの生活の中にも深い感動を持ち続けられたのが金光様でした。
例えば、利守志野さんも、その感動を伝えられ、自分自身も世界が開けるほどの感動を持ち帰られた一人だと思います。志野さんは、長男が病弱であったため、その病気平癒を願って、岡山から金光様のもとへ約40㎞もの道を歩いて参拝されました。
すると、金光様はああせよ、こうせよと言う前に、まず天地のお話をされました。それが、
「お天道様のお照らしなさるのもおかげ、雨の降られるのもおかげ、人間はみな、おかげの中に生かされて生きている。人間は、おかげの中に生まれ、おかげの中で生活をし、おかげの中に死んでいくのである」
です。志野さんはこの一言を金光様のお話の筆頭に置いておられます。文字で見ると、淡々と道理を解いておられるかのような内容ですが、実際の場では、金光様ご自身がこのことをいつもいつもよほど素晴らしいことだ!と感慨深く思って生活をしておられたからこその表れです。
そして聞かれた方の志野さんも「実にそうだった!」と目の前の霧が晴れ、帰りの道中はもう景色が違って見えるかのように、天地の大きなお働きに包まれている思いいっぱいで帰っていかれたに違いありません。それだからこそ、この大きな天地に生き生きとした気持ちで祈っていけたのだろうと思います。
ありがたいことに息子さんはそれからみるみる元気になっていかれたので、村の人たちからも驚きの眼で見られました。さらに志野さんは人にもこのことを伝え、多くの方を導き、助けていかれました。
生きた神様ここにあり
教祖金光大神様は、夜明けに起床し、南の縁側で東の空を拝し、日暮れには、西側のぬれ縁に出て西の空を拝しておられました。それはただ自分が決めているからだけのことではなかったのだと思います。数々の金光様のお言葉からすると、空を仰ぐたびに、天地の大きさ、生き生きとした躍動感を感じ、深い感銘に浸るような拝み方をされていたはずです。
ご晩年の旧正月に初参拝された近藤藤守先生は、金光様のお姿を次のようにお伝えになっています。それは軒につららが下がるような寒い日であったにもかかわらず、金光様は木綿の布子に木綿袴を着け、この寒中に火の気もないなかに、寒さも覚えぬ様子で端座しておられた。しかし湯上りとも思われる程に艶々しい顔色をしておられたそうです。この湯上りのようなお顔色のことは近藤先生だけではなく、他の多くの方もお伝えになっているご様子です。
凡人には真似できぬところですが、少なくとも心の中が極めて高揚感に包まれていたことの表れでもあります。
凄さを感じ、取り戻していこう
私たちも神様を拝み、願いごとを頼む前にするべきことがあります。まず自分が向かっている神様が本当に生きた、生き生きとした、躍動感のある、力強く、また言葉に尽せぬほど精緻に、つやつやとお働きになっている、そういう凄さを常に感じ、取り戻すことです。そうしながら神様に向かうと、またとても力強く祈れるものだとも思わされております。
現代のミュージシャンたちが渾身の熱を込めて歌う姿に多くの聴衆がすごい迫力を感じ、一緒に感動し合っている姿を見て、信心の楽しみもある意味で共通することがあることを思わされたのでした。 畑 淳
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